福田拓也教授プロフィールと著作
以下にご紹介する経歴と業績がある福田拓也教授に対して東洋大学はほぼ20年間に渡り講義科目を一切担当させず、初歩フランス語の授業しかさせていません。役職も一切与えていません。また、フランス語にだけ予算が全くつかない状況がほぼ10年続いており、ドイツ語などと最大200万円の格差があります。そして2024年度は一切の授業が剥奪されています。
トップページにも書きましたが、福田教授へのハラスメントが開始した後の約20年間に法学部長をつとめた教授4人のうち2人の最終学位が東洋大学修士です。4人とも最終学位は修士号です。
福田教授が所属する東洋大学法学部の専任教員58人中、25人は最終学位が修士です。
福田拓也教授プロフィール
1963年東京都生まれ。
慶應義塾大学文学部仏文学専攻卒、同大学文学研究科修士課程仏文学専攻修了、修士号取得。同大学文学研究科後期博士課程在学中に仏政府給費留学生としてパリ第3大学DEA課程に留学、DEA取得後パリ第8大学博士課程進学、1996年パリ第8大学にて文学博士号取得(新制博士号)。慶應義塾大学等の非常勤講師を経て1999年東洋大学文学部専任講師、2000年大学の編成変更に伴い法学部に移籍。2013年より同大学教授。
フランス文学研究者としてだけでなく詩人・文芸批評家としても活躍、多数の著作がある。1993年現代詩手帖賞、2018年歴程賞(旧「藤村記念歴程賞」)受賞。
仏政府給費留学生とは
フランス政府から奨学金が支給される留学生です。「仏政府招聘留学生」と呼ばれた時期もありました。合格者はごく少数で、試験は極めて難関です。福田教授が受験した1989年秋は、約三時間にわたる筆記試験(論述と書き取り)の後、筆記試験合格者対象には数人の面接官との面接試験が課されました。1989年度の合格者には生活費支給の他、学費・学生健康保険料免除、滞在許可証手続き優遇などに加え、フランスに到着して初日の宿泊がパリ市内のホテルに用意されており、空港まで車の出迎えがありました。
新制博士号とは
1984年の改革以降に授与された博士号。改革以前には約100ページほどの博士論文で取得できる「第3課程博士号」と1000ページほどが要求され大学教員になってから取得されることが多かった「国家博士号」の二種の博士号が存在していましたが双方が廃止され、PhDに相当する新制博士号に統一されました。博士論文の提出はDEA取得後3年以上経ってからという規則も定められました。1984年の改革により、フランスでの博士号取得は非常に困難になりました。
福田拓也教授著作紹介
(委員歴・論文・書評・エッセイなどについてはresearchmapの福田拓也のページをご覧ください。)
福田教授の日本語単著著作すべてを集めた写真です。
文芸評論が4冊、詩集が9冊、合計13冊。
詩集『倭人伝断片』(思潮社)『惑星のハウスダスト』(水声社)は第58回歴程賞を受賞。
詩集『DEATHか裸(ら)』(コトニ社)は萩原朔太郎賞・西脇順三郎賞最終候補、文芸評論『尾形亀之助の詩』(思潮社)は鮎川信夫賞最終候補。
福田教授がフランス語で執筆した論考および序文が掲載されているフランスの出版物です。
いずれも福田教授の執筆したフランス語のまま、ネイティブチェックは経ずに出版されています。
左側の本はストラスブール大学で行われた日本文化についての研究発表を収録したものです。万葉集表記についての福田教授の発表が掲載されています。
右側の本はフランスの詩人ジャック・イバネスさんの詩集。福田教授は序文を寄せています。
パリ第8大学博士論文《La genèse de l'oeuvre poétique d'Eluard, du langage proverbial aux écritures surréalistes(1918-1926)》
福田教授がパリ第8大学で博士号を取得した博士論文です。上下巻、全760ページの大作です。前述したとおり、福田教授が留学する直前にフランスでは博士論文と博士号についての制度改革があり、福田教授の博士号は、改革以前の「第三課程博士課程」と異なり取得が非常に困難になった「新制博士号」です。
博士号は4人の教授との約3時間にわたる公開の厳しい質疑応答を経て初めて授与されます。
博士論文の第6章は『エリュアールの自動記述』として水声社から刊行されています。
博士論文を開いたところです。
この厚さをご覧ください!
日本語単著紹介
『エリュアールの自動記述』
(水声社、2018年)
「呟きは連なり〈語〉は戯れ群れをなす―何の考えもなしに不意に書きはじめられた語は、なぜ自らを探し求めるように連鎖していくのか?―純粋な思考の表現を目指す一方で言語に頼らざるを得ないという逆説に引き裂かれながら、果敢にも自動記述を実践したエリュアール。解読不能寸前のシュルレアリスム的テクストを解剖し、その原理を露わにする。(帯文)」
パリ第8大学で博士号を取得した博士論文『エリュアールの詩作品の生成、諺的言語からシュルレアリスム的エクリチュールへ(1918-1926)』(La Genèse de l'oeuvre poétique d'Eluard, du langage proverbial aux écritures surréalistes(1918-1926))の第6章、著者自身による待望の邦訳!
『「日本」の起源――アマテラスの誕生と日本語の生成』
(水声社、2017年)
「ボードレール以来、詩と批評の両立および協働は、すぐれた現代詩人の不可欠な条件であるとされてきたが、福田拓也はその条件をみたす今日まれにみる詩人のひとりである。というのも、福田は昨年、『「日本」の起源』という破天荒な論考において、訓読や万葉仮名をめぐる日本語論を展開し、「漢語と倭語(わご)の二重の消滅(たとえば「光」を「ひかり」と訓読した瞬間に、漢語本来の音も文字なき倭語の原初の声も同時に失われてしまうこと)に「原-日本語」をみて、その「起源的な暴力」を、真の生産的な暴力に脱構築することにこそ、日本語で書く詩人の究極の夢があるのではないかという示唆をわれわれに与えた」(野村喜和夫氏「公明新聞」2018年2月12日)
「鏡と福田氏の縁は深い。『「日本」の起源-アマテラスの誕生と日本語の生成』は、鏡の神話だ。「岩屋に籠ったヒルメ[アマテラス]に差し出された鏡」を、彼女は自分の胸像だと誤認する。そこに日本なる言説の正体がある、と」(鈴村和成氏「図書新聞」2022年9月24日)
『小林秀雄 骨と死骸の歌――ボードレールの詩を巡って』
(水声社、2015年)
小林秀雄の深淵に潜む「秘密」を突き止める―これまで自明とされてきたボードレールによる小林への影響関係を、気鋭の詩人・文藝批評家が、たゆみない詩作によって培った、鋭い洞察と軽やかな飛躍と精緻な論理によって、見事に反転させ、新たな境地へと踏み込んだ、画期的な小林秀雄論。(帯文)」
『尾形亀之助の詩 大正的「解体」から昭和的「無」へ』
(思潮社、2013年) 2014年度鮎川信夫賞最終候補
「「詩論」というよりも、「夢の書物」の、……さあ、どう譬えようか、風にかたむく若い欅か楡、……樹肌から血が滲むような、……福田拓也氏『尾形亀之助の詩』に、注目をした。ハイデッガー、ラカン、フロイトを援用してすすめられて行く、こうして詩の血路を拓いていこうとしている福田拓也氏の大成を期す、……」(吉増剛造氏「白狼と波浪の間に」現代詩手帖2014年4月号)
「消極的な態度の極みであるかのように見える亀之助の詩の、名状しがたい吸引力の謎に大きく踏み込み、時代の精神に光をあてた、気迫のこもる詩人論である」(中本道代氏「現代詩手帖」2013年10月号)
フランスで出版された書籍紹介
Jacques Ibanès,
"Dans les pas d'Hiroshige" 序文
Edition l'An Demain, 2022.
歌手としても活躍するフランスの詩人ジャック・イバネスさんの依頼を受けて福田教授がイバネスさんの詩集に序文を書いています。
万葉集についての論考
"La répétition de l'《entre》dans l'écriture poétique du Man-yo-syu", dans《Ma et aida : Des possibilités de la pensée et de la culture japonaises》, textes réunis et présentés par Sakae Murakami-Giroux, Fujita Masakatsu et Virginie Fermaud, Editions Philippe Picquier, 2016, et Editions Picquier pour l'édition de poche, 2021.
ストラスブール大学で2015年に開催された日本についてのシンポジウムの論文集です。福田教授は詩人の感性を活かし、万葉集の日本語表記について発表しましたが、この発表は2017年、『「日本」の起源――アマテラスの誕生と日本語の生成』(水声社)として結実することになりました。
詩集紹介
『オンラインまだき』
(しろねこ社、2023年)
PainterKuro氏とのコラボレーションにより実現。限定150部刊行。
予約で完売し、著者も一冊しか手にしていない幻の詩画集。
『DEATHか裸(ら)』
(コトニ社、2022年)萩原朔太郎賞最終候補・西脇順三郎賞最終候補
「人間の解体、主体の解体、それと同じことだという予感とともに考えている人間の不死性、存在の不滅について、ここには理屈も言い訳も持たない言葉の連なりがある」(保坂和志氏『DEATHか裸(ら)』解説)」
「福田さんの詩は、かつての「前衛」に決まって張りつけられた「実験」だの「冒険」だのといった符牒が、もはやそらぞらしく聞こえるほかないような地点まで駆け抜けていってしまったようである」(松浦寿輝氏「新潮」2022年11月号)
「福田拓也の最新詩集『DEATHか裸(ら)』(コトニ社)が衝撃的である。保坂和志の推薦文が付いているが、それがまたおざなりの誉め言葉でない。「騒音的な音調が私をワクワクさせる」と、不可解なエクリチュールに対する一個人の感覚を示していて興味深い。[中略]戦争と疫病に蝕(むしば)まれた世界の果てに、『DEATHか裸』という地獄が生まれた。詩は散文よりもダイレクトに魂を食い破る猛禽(もうきん)の嘴(くちばし)であるが、そのことを教えてくれる詩人の数はさほど多くはないのである」(「東京新聞」大波小波2022年4月14日)
「私たちの詩が、『DEATHか裸(ら)』によって、浄化され、再生されているかのようだ。そのための手続きとして、ダンテが「煉獄」を通過したように、福田拓也は、ばらばらになった身体を統合し、詩を、何度でも書く」(杉中昌樹氏「現代詩手帖」2022年9月号)
『惑星のハウスダスト』
(水声社、2018年)第56回歴程賞
『惑星のハウスダスト』(水声社)では、「ほそめにあけたすきです、ですます麿の浜に海水欲ぼうっとしたあたま」(「草かげのストーリー」より)など、単語の音を次の単語に重ねて意味をずらしつつ書き進め、読む速度をわざと遅らせる仕掛けも。それでいて、個体の生命を解き放って宇宙的な広がりへ向かうような蠢き(うごめき)が伝わってくる。「暁の焼けつくような光となって海の肉の中で炭化した空の灰となりそこらじゅうに広がりたいんだ」(「過呼吸の風」より)。意味の伝わりにくいところでも言葉は生々しく動いている」(川口晴美氏「東京新聞」2018年5月18日)
「この濃やかに流動する官能のイメージの波間から、言語の新しい身体を常に欲望する詩の、豊饒な時間が産み落とされる」(峯澤典子氏「現代詩手帖」2018年6月号)
『倭人伝断片』
(思潮社、2017年)第56回歴程賞
「『倭人伝断片』(思潮社)は、香具山、パリの安ホテル、阿佐ヶ谷、流山中央病院など語り手の記憶につながる具体的な地を、呪文を唱えるように繰り返し描き、そこへ個人としての生と死を超えた神話的な空間を力強く呼び込んでいる」(川口晴美氏「東京新聞」2018年5月18日)
「果てのない旅路のように続く詩行は、進むほどに稠密さを増し、螺旋状に熱を帯びるが、意味の混濁や思考の迷走とは無縁のまま、硬質さと優美が何層にも重なるイメージの建築物を生んでは、またそれらを新たなイメージの波で消してゆく」(峯澤典子氏「現代詩手帖」2018年3月号)
「福田拓也『倭人伝断片』(思潮社)はまさしく、血と肉でできた言葉そのものである「わたし」が、いくつもの時空を経巡ってその光景となり、そこで死んではまた生まれるという消息を綴った詩集である」(浜田優氏「現代詩手帖」2018年12月号)
『まだ言葉のない朝』
(思潮社、2014年)
「極限的実存のさまを表現」(野村喜和夫氏「読売新聞」2014年10月21日)
「『絶えざるクラクションの音、鳥たちの囀り、どこかから聞こえる鼓動、風も吹いている、途絶える、途絶えない、囁きと息、骨と肉の複雑な地形』 経典のごとく、砂絵のごとく、果てなく流動しつづける長篇詩」(帯文)
『砂の歌』(この詩集のみ「福田武人」名義で出版)
(思潮社、2005年)晩翠賞候補
「長編散文詩『砂の歌』(思潮社)での福田武人は、もはや世界を、「在るもの」としては見ようとしない。すべては砂である。それを前提として、その自明さのなかで書きつづける。風景を、身体を、否定し、廃棄し、消尽しつくそうとする。決して何ものかを名指すことなく、ひたすら消去していこうとする言語的な運動。それがついひとつの律動を形成してしまうことにも警戒心を怠らず、ましてや「制度化された網の目状の地所を穿ちその一部を汚損」することが詩であるといった楽天的な錯誤からも遠く醒め、どのような幻想をも廃棄しつつ、光でもなく、闇でもなく、どのような標もない砂地の白のなかを言葉によって彷徨すること。その痕跡としての詩集。」(笠井嗣夫氏「現代詩手帖」2005年12月号)
『言語の子供たち』
(七月堂、1999年)
「それにしてもこうして思い定められた言語による不可能性の伝達が、最後に至って逆に福田さんの言葉の可能性を炸裂させ、その先へ向かって光を発する光景は圧巻と言うしかない。『鏡を欠いた二重の他者。裸足の上に。そして唇の風に。流れる。あるいは発話する光の波。押し寄せる言語の子供たち。無人の岸辺に。(中略)歌うことのない口が。初めて言葉を喋る。習い覚えたのではない言語で。偏在する言語の子供たちが。言語を知らない無垢の光で」。ここではかつてのリゾーム状に広がる液化した文体は影をひそめ、明確に句読点が打たれた、という以上に読点が多用された硬質な固体化へと向かう文体の変化がみられるが、それは生と死と再生をめぐる生成発展の過程に合わせて、身体的思考から抽象的思考へと向かう動きを同時に示しているので、ことさら強い印象を受けずにはいない。」(新井豊美氏『砂の歌』栞から)
『死亡者』
(七月堂、1998年)
「第二詩集『死亡者』は自転車に乗った病中である主体が、砂に埋もれたサイクリングロードを空回りしつつ進み、ついに自らも砂に埋もれて死んでゆくという設定で死を契機とした詩の発生が語られてゆくのだが、[中略]ここでも空虚に向かって書くという主題は一貫して持続されているのであって、福田さんにとってこの逆説論理的転回こそ「空虚」に接近する唯一の方法であるかのようだ」(新井豊美氏『砂の歌』栞から)
『砂地』
(楢葉出版、1998年)
「98年に出された『砂地』は福田さんの最初の詩集で、そこでは投稿時代からの「砂」と、次第に過剰さを増してきた「性」のモティーフがさらに膨張し、リゾーム状に広がって一冊の世界を覆いつくしている。[中略]この詩集の最後ではその自動記述的実践が一種の限界に達した状態をあらわにする。『ブるんとるんりるんりるんり無ンするんムるんとるんムるんとりんすんムすんムすんムたいんムたいムたいムたいムたいム体ムたいムたいんムむーるすんむるんとるんシるんムるんしるん死』。言葉から意味やイメージがすべて消去された後に残るものは音とリズムのみである。この実験的な詩集がひとつの臨界点に達したことを示していると言ってよいだろう」(新井豊美氏『砂の歌』栞から)
現代詩手帖賞受賞から4年後に出版された第一詩集。 巨岩が風化し少しずつ崩れ落ち、最後には砂粒と化して風に舞うかのように、一篇ごとに意味が希薄化し音の粒となって死んでゆく言葉の姿が一冊におさめられた幻の傑作!